人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

過干渉である自覚

最近ようやくアクセス数が落ち着いてきたので、大変考えさせられた出来事について本音をもらしておきたいと思います。

 

先にお断りしておきますが、この文章は誰かに私の思想を押し付けようとして書いたものではありません。あくまでも今現在の私のスタンスを自分が確認するために、素直に吐き出したものです。そのぶん、少々過激な表現もございます。ご不快に思われる方がいらっしゃったら、先に謝っておきます。ごめんなさい。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

 

子が突然「○○になりたい」と宣言することは、ままあることです。

 

昨日が警察官なら今日は野球選手、明日はお医者さま、といった具合に、特に男の子はコロコロかわる傾向にある。そんな戯言に「昨日は警官になるって言ったじゃない! ワクさんが偉くなれって言っていたからⅠ種国家公務員試験の問題集買ってきたのに!」と真剣に付き合う親御さんって、いるんでしょうか。せいぜい、公文に放り込むかたわら学資保険のパンフレットを取り寄せたり、柔道の教室をネットで検索したりするくらいではないでしょうか。

 

野球なら、きっとキャッチボールや素振りあたりから付き合うでしょうね。サッカーならリフティングやパスの練習。お花屋さんになりたい女の子なら、ベランダに置ける程度のプランターを用意したり、お花図鑑を買ってきたり。「歌手になりたい」と言われたらどうするの? とちょっと考えましたが、地方では町ぐるみの喉自慢大会なんかがよく開催されていて、そのために祖父母からこぶしのかけ方を教わる、なんてこともあるみたいですね。なんにせよ、親は自分の可能な範囲で我が子の他愛もない戯言(夢)のお手伝いを始めるものです。

 

それ自体はとっても微笑ましい光景なのに、どこかの境界線をまたいだとたん、傍目に醜くなるのが親子の芸道でもあります。松井秀喜鈴木一朗も、星飛雄馬のように父親から猛特訓を受けてきました。今でこそ輝かしい経歴を持つお二人ですが、そこにいたるまでの親子の姿は、きっと美しいとはいえない壮絶さがあったことでしょう。「親子してバカなことを」と後ろ指をさされ「親が仕向けたから」と非難され。

 

野球は国民的スポーツだからそこまで批判はされなかったでしょうが、これがたとえば沖縄の子で「将来はボブスレーのオリンピック選手になる」と言ったとしたら、近所中が「気でもふれたか」と噂しあうくらい、それはそれはヘンテコな特訓を毎日しなければならなくなるでしょう(すみません、想像だけでモノを言っています)。恥も外聞もなくした強烈な親子関係を傍から見た人は不気味なものを見るような目でつぶやきます。なぜそこまで? と。

 

そこに行き着いた親は、子に「狂気」を見せているのです。

 

われわれ大人は知っています。道を究めるためには、どこかで「狂気」が必要になることを。だから親は「本気だ」と言う子に「狂った本気」を教える。それは野球選手になりたい子に夜中までスプリットボールを教えるように。サッカー選手を目指す子にゲリラ豪雨のなかラボーナを教えるように。

 

「さあ、やってごらん」と普段と変わらない顔で「狂気」を差し出す。おじけづけば離れる。そこに恍惚とした未来を見れば続ける。それは、親も、子も。

 

しかし、結果とは残酷なものです。狂気の教育の結果、子が成功すれば世間は「天才児を育てた親」と褒めそやかしますが、失敗すれば「子を自己表現のために利用している」「子の将来性を親が奪っている」「親の自己顕示欲の投影でしかない子育て」とボロクソに批判するのです。

 

不公平と思いますか? 私は思いません。正当な評価だと思います。

 

親はもちろんのこと、子はいつか、結果がすべての社会に放り込まれます。この程度の結果を不公平と漏らす子は社会では戦えません。

 

一方で、この手の話題になると必ずといっていいほど出てくるのが「子どもをあなたの犠牲にしないで!」と反応する人。「その子の気持ちを考えたことはありますか?」に始まり、「親の顔色を伺わないと命の危機に直面する子どもは『本当はやめたい』なんて言えるけがありません」と結ぶ。

 

そうですね。認めます。その葛藤はリアルに毎日抱えているから痛感します。「ヴァイオリンを辞めたからって、絶対に! これっぽっちも! あなたを嫌いにはならない。だから辞めたいときは正直に言って」と何度言ったか覚えていないくらいです。それくらい、「はやくこの子の本心が自分の意志で道を指し示してくれ」と日々胃をキリキリさせながら見守っているんです。

 

ただし、「私は結果主義ではない。過程を批判しているのだ」と言う意見には明確に反論します。彼らが批判しているのは「過程」という名の「結果」です。そこに恐らく気付いていない。

 

「私はあなたの子と同じ目に遭ってきた。私みたいに病ませないで!」という人もいる。でもそれは、あなたの親御さんに言っていただきたい。自分の苦しかった過去の恨み辛みを、人の子に八つ当たりしないでいただきたい。他人の子があなたと同じ境遇だとどうしてわかるのか。私にはその思考は傲慢としか思えません。

 

つまり、まとめると、

 

 

第三者は結果でしか人を判断しないのだから、周囲から見てどんなに狂気じみていようと、いばら道を進む過程にいる親子に、横から無責任な口出しをしないでくれ。

 

 

ということ。

 

もちろん虐待や周囲に迷惑をかける行為は論外です。が、それらですら子の精神的・肉体的な生死に関わらないかぎり、定義もあやふやだということだけは明記しておきたいと思います。決して虐待や迷惑行為を肯定するという意味ではありません。この問題は私一人の判断で簡単に定義したくないし、一方で、人に定義を押し付けられたくもないということです。

 

医者の子は医者を目指すことが多いように、音楽家の子は音楽の道に進むことが多い。それは親がそう仕向けているからではなく、生活環境に自然に「それ」があるから。親がよっぽど「私の子に楽器は触らせない」と禁止しない限り、自然の成り行きで音楽の道を志すのではないでしょうか。「弦の道は三代目から」なんて残酷な言葉もあるくらいです(うちは姉妹とも一代目ですので、より残酷です)。環境が子に与える影響はバカにならないものです。

 

その環境すらも「親のエゴ」「虐待」と言うのでしょうか。庄屋の子が「金持ちのぼんぼん」と小作の子からイジメられたとき、その子は「なんでうちは庄屋なんだ! これは児童虐待だ!」と言うのでしょうか。たとえ言ったとしても私は鼻で笑いますけどね。

 

私は、子の不自由を「親のエゴ」「虐待」という言葉で括る思考を疑います。

 

すべてを否定はしません。が、疑います。それが私の、我が家のスタンスだからです。子らはあと10年もすれば立派に自己判断できる年齢になります。親元から離れたければ自分で選択するでしょう。それまでにヴァイオリンを辞めたいというかもしれません。辞めればいいでしょう。続けたい、プロになりたいというかもしれません。目指せばいいでしょう。そこに「親のエゴ」は関与できません。

 

長女は三歳のとき、妻に「ピアノでも習ってみる?」と促されて「ヴァイオリンが弾きたい」と自分から主張しました。どうせ翌日には「ハープが弾きたい」と言い出すだろうと思っていたら、今でもヴァイオリニストになると言って憚りません。四歳の発表会で彼女は、誰も教えていないのに自分で工夫を加えた演奏をして、周囲の大人をハッとさせました。技術的にはつたないですが、「何かを伝えたい」という気持ちは十分に受け取りました。それからも、本番前になると何かしら勝手に工夫を加えてくるお茶目な長女さんです。そんな彼女には、一度は狂気を見せてみたいと思っています。その結果おじけづいても、それは仕方のないことでしょう。

 

二女は、正直親も判断に迷うところがあります。「ヴァイオリニストになりたい」という彼女の表明を真に受けることは、なかなかできません。なぜなら「姉が言っているから」という潜在的な前置きを、普段の言動からなんとなく感じ取れるからです。二女は典型的な五歳児で、「ピアニストになる」「バレリーナになる」「ナイチンゲールになる」と日々指標が変わります(最後のはマンガの影響です)。親バカといわれてもいいですが、今のところ姉より技術的なセンスはあると思います。真剣に叩き込めばかなり伸びていいところまでいくでしょう。もしかしたら、姉を抜くこともあるかもしれません。しかし、妻がどう考えているかはわかりませんが、私はまだ彼女に自主性を感じることができない。つまり狂気を見せる気にはなれないのです(妻は二女には、まだ本気のきっかけを与えていないだけ、と思っているところがあります)。

 

日々これだけのことを考えて子に接しているわれら夫婦は、子に関しては間違いなく過干渉です。間違いなく過保護です。それは何度再確認してもし足りないということは無いでしょう。

 

とはいえ、子は意志を持ったとたんに、その程度の拘束具は「フンッ!」の一言で破壊してしまえるくらいのパワーを持っているもの。どんな形で裏切ってくるのか、今から若干恐怖でもあり、楽しみでもあります。

 

それよりも親にとって本当の恐怖は、自らの勉強不足です。ヴァイオリンもクラシックもピアノも、本当に何もわからないのですから、日々知識を溜め込むしかありません。今はいい時代です。ネットがありますから10分も時間があれば簡単に調べられます。この数年、寸暇を知識蒐集のために使う毎日です。それは彼女たちが私たちの手から離れていくその日まで続くことでしょう。

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

 

めったにこんな記事は書かないのですが、ここ最近、大変ショッキングな出来事があったもので、今現在のリアルな気持ちを残しておくことにしました。

 

長々と偉そうに失礼いたしました。明日からはまた、何の面白みもない平常運転に戻りたいと思います。

 

ではまた。




ブログランキング・にほんブログ村へ 

↑クリックくださると励みになります。