人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

一音へのこだわりを持つということ

実は長女、この夏から秋にかけて、ふたつのコンクールを受けることになっています。いろんな手違いや期待や誤解の産物なのですが、出ると決めたからには全力でがんばりたいところ。というわけで、本番がもうすぐ直前に迫っているため、家族も全員がそこに向けて集中していきます。

 

特に今回私が彼女に求めたのは、「一音へのこだわり」。

 

長女さんはテクニックを使いこなせば曲になると思っている節がありまして。難しいところに入る直前の、一番簡単な音を捨てる癖があります。そここそを大事にするようにと、特に口すっぱくして伝えてみました。

 

漫然と弾いているときには、

 

「ほんとうにその音? ほんとうにそのヴィブラート? あなたの理想の音楽はほんとうにそれ? 別の方法を試して、なんどもなんどもいい弾き方を探して!」

 

と言い続けました。長女はおちゃらけながらやり過ごそうとしますが、それは長時間をこなせば練習したと思っているから。なんとも志の低いことです。これからは量より質。そしてそのうち、量も質も、に変化していかなければならない。ここは長女、ふんばりどきだよ?

 

しつこくしつこく一音ずつを指摘していくと、自分でも思い通りの演奏ができないことに悔しさを感じたのか、目に涙がにじんできます。なんどもなんども私たちに音程のズレを指摘されますが、それでも自分で気づけない。気づけない自分が腹立たしくもなる。そんな苦難の道です。

 

毎度毎度、演奏の内容が違うのも考え物です。これは、と気づいたことがありました。

 

「弾きながら考えちゃダメ。考え抜いてから弾いて」

 

頭の中で設計図を作り、それに沿って弾く。それをしないと、弾くたびに違う内容になってしまい、どれがよかったのかがわからなくなってしまう。クライスラーの『前奏曲とアレグロ』のときも散々この練習をしたのに、また忘れてしまっている。

 

大人の頭では「こうすれば効率的なのに!」と思うことが、長女の脳ではまだわからない。大人はもどかしい。子ももどかしい。

 

……本当にこの地獄から早く抜け出たいものです。一音へのこだわりを、自分で探すようになるのはいつの日のことでしょうか。

   

遠い未来にも感じますし、近い将来来る気もします
まだまだ我々が思っているよりも幼いんですよね、8歳って

 

ではまた。