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人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

休日に思うこと

二女はバレエの発表会が近いため、最近ずっと長時間練習が入っています。ですので私の休日に何か用事があった場合、長女と私だけが参加することになります。この日はお墓参りがありまして、妻と二女を家においてふたりで出かけて参りました。

 

といってもじじばばが長女にかまいっきりなので、私は結局ひとりでぼーっとする時間が増えるわけです。

 

行き帰りの電車の中、ご飯を食べている時間、子どもたちが勝手に遊んでいる合間、ひとりの時間が多かったぶん、いろいろと考えることが多かった。

 

長女の演奏について特に思うところがあり。

 

先生が「いい演奏」と評価くださる内容、確かにいいんです。心が動くんです。が、お客に聞かせても問題ないレベルかどうか、と問われたとき、正直「もっとできたことがあるはず」と思ってしまう。細かい音程、細かいミス、そういうところに思わず耳がいってしまう。

 

「ミスや音程を気にしすぎた演奏」というのは、得てして面白くないパフォーマンスになり、なんのために弾いたのかがわからなくなるもの。だからといって弾きたいことを前面に押し出すとそれはそれで粗くなる。弾きたいことを殺さずに丁寧に弾けることを学習している身なのだから、どちらかの面で未熟さがあるのは当たり前といえば当たり前なのですが、厳しい人たちの目に晒せば必ず「粗いよね」という目で見られる。

 

日本には「演奏の丁寧さ、緻密さ」が重んじられる風潮があります。だから長女が音楽の根源的な情熱を主軸にしたレッスンを受け続けていると、「このまま細かい部分を詰める作業をせずに、学生音楽コンクールを戦えるのだろうか」と、どうも親は余計な焦りを覚えてしまいます。

 

先日、マスタークラスにお呼びくださったS先生にも「応募してくれたCDを聴いてびっくりしたよ。これで小学校2年生!?って。でも、だからこそ細かい部分が気になってくる」と言われました。同じくC先生からも「素晴らしい。印象的な演奏だ。だからこそもう一段階上を目指すべきタイミングにきているようだ」と。長女の先生が「天才」と言って憚らないピアノのM先生からは「もうそこまで弾けるなら、自分の音をもっとよく聴く練習をしていい頃だよ。クレバーな音を出せるようになろう」。……三者とも、根源的にはまったく同じことをおっしゃっているわけです。

 

「弾きたいことはわかった。だから次に丁寧さを身につけよう」

 

丁寧さって、ある程度の脳の成熟を待たないとなかなか身につかないんですよね。だから舞台にご招待することはさておき、録画した演奏を披露することについては、どうしても一種の不安と戸惑いを覚えるわけです。こんな未熟な演奏を披露していいものだろうか。親は長所にばかり目がいくが、平均的なバランスとして良演といえるレベルに本当に達しているのだろうか。やはりまだ早いのではないだろうか。

 

そんなとき、吉田兼好がこう言うのです。

 

能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

 (徒然草 一五〇段より)

 

ですよねー。わかってるんですよ。でもそれができる人って、やはりどこか吹っ切れているのだと思うのですよ。実際、次々と舞台を掴んでいるすごいお子様たちって、躊躇なく動画も写真もアップされていますし、多少粗かろうと雑だろうと失敗していようと、どんどん「よくせざらんほど」を衆目に晒しているわけです。

 

学習の身をどのように置くべきか。それは親と子の永遠の課題なのかもしれません。なんにせよ、恥を晒す覚悟はもっと強く持つべきなのでしょうね。

 

そんなことを考え続けていたせいで、休日にぐったりしている間抜けな父親なのでした。

 

吉田兼好ってなかなか深いことを書いているんですよね
時折ただの頑固親父みたいなエッセイも残しています。そのアンバランスがまたいいですね

 

ではまた。