人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

応援とは●●●●的なもの

以前にこんな日記を書いたことがありました。

 


長女の先生に言われるまでまったく疑問にも思っていなかったことが、海外の国際コンクールの映像を見るごとに「ああ、日本のコンクールって確かに怖いよな」と感じるようになってきた、といったような内容の話です。

 

なぜ欧米と日本の応援の仕方はこうも違うのだろう、と疑問に思っていたのですが、ひとつ解決のキーになりそうな話を読んだので、忘れっぽくなったこともありますし、気づいたうちに書き記しておこうと思います。

 


こんな記事を読みまして。バレーボールの熱狂的応援はまあ昔からあることですし、「試合に負けたのに楽しそうに帰る客を見てもやもやした」という筆者の気持ちもわからないでもない。でもその記事の中に、こんな一文を見つけてとても腑に落ちました。

 

海外スポーツを多く取材する同僚記者は「応援とは自然発生的なもの、という欧州の観戦文化では想像もできないだろうね」と言う。

 

なるほど、なるほど。そういうことか。野球の試合だろうと、酒場の喧嘩だろうと、ライブの声援だろうと、TEDxの客の参加意識だろうと、全部「自分の心のなかから出た応援」なのでしょう。日本にまったくそういう文化がないか、と問われると、あるとは思います。判官びいきをこじらせたような、「負けているほうを思わず応援する」という経験、私もあります。そういうとき、様式美は気にしないですね。

 

でも型を好む日本人は、歌舞伎の大向うや宝塚の指先そろえた拍手、野球やサッカーですらわかりやすく応援歌(サッカーならチャント)がありますし、近いところではオタ芸などもそれに含まれますね。最近の話ではアニメ映画を劇場で応援するというスタイルまであるそうで、そんな歴史の浅い文化にすらすでに様式美が生まれているそうです。

 

これは国民性ですね。うん。きっとそうだ。

 

なら「コンクールだろうと演奏者が現れた瞬間から拍手すること」と規定してしまえば、日本のお客様もガラッと変わるんじゃなかろうか。それだけの問題なのであれば、もっと気楽に聴ける環境を主催者側も努力して作り上げないといけないですね。

 

構造の問題、文化の問題。いろいろとあるものです。

 

私は奏者の家族側の立場なので、子が気持ちよく弾けるのが何よりです
実際自由な気持ちで弾いたほうがどんな子も伸び伸びとした音を出しますよね

 

ではまた。