TLP第三弾
現在のお師匠以外の体験レッスンに突入して、親子ともども現状に足りないものを探そうという、飛び込みレッスンプロジェクト、略してTLPは、今回で最終回です。もし前回までの経緯をごらんになりたい方がいらしたら、こちらからどうぞ。
最後の先生はマンションの一室にレッスン室を構えていらっしゃる、少々ご年配の女性。経歴は申し分なく、哲学もお持ちの様子。優しく出迎えてくださいました。
電子ピアノの椅子に座られた先生は、私どもにではなく、長女本人に話しかけてくださいます。しかし、なんと答えたらいいのかわからないのか、長女は完全に親の顔をみながらしか受け答えすることができません。ひとまず、弾いてもらいましょう、ということになりまして、
セヴィシック、カイザー、バッハ、クライスラーの順に聴いていただきました。
バッハとクライスラーは、リズムをとるように簡易的にピアノで伴奏をつけてくださり、それにあわせてどんどん弾き続けました。すべてが終わると、一言。
「カイザーを聴く限り音程はいい。ただ、拍の概念がないのと、手首がかたいね」
この先生にも指摘されました。「拍の概念がない」……うーむ、こうまで言われ続けると本当に心配になってきます。リズム感がないのとは違うらしく、小節線を意識した演奏になっていない、ということなのだとは思いますが……。
たとえば、ベートーヴェンの「運命」の楽譜には、頭に八分休符が記載されています。アウフタクト(楽曲が第1拍以外から開始すること)なのだから休符をわざわざ記載する必要はないのにあえて書いているということは、「休符も演奏しなさい」という意図。これは拍を意識していない人にとってはナンノコッチャな話になるわけです。このままだと長女は一生「運命」は弾けないわけです。
手首の硬さも実はかなり意識してきたのですが、それでもまだ足りない様子。あー、これは脱力をしっかりやらないとなー、なんて思っていたら、先生がちょっと深刻そうなお顔になりました。
「間違えちゃいけない、正しく弾かなきゃいけない。そうやって緊張すると、子どもって手首に力が入る。だから音が悪くなるのね」
そうおっしゃってから、
「間違うと、怒られる?」
と長女に聞きました。なんと答えていいのかわからない長女は首をひねりながら、親の顔をうかがいます。
「ね、親の顔をうかがっちゃう子って、こうやって手首が硬いの」
そして、おもむろに本棚から楽譜を取り出し、ヴァイオリンを手に、
「これ、一緒に弾いてみよう」
とおっしゃいました。とてもカンタンな16小節程度のデュオの曲でしたが、「いい? 間違ってもいいから、止まらないでね」とおっしゃって、初見であわせて弾いてみることに。長女、のびのびとしたいい音を奏でていました。
「ほら! キレイでしょ! 力んでない!」
先生は満足そうに笑われました。
それから、親が無理やり演奏させることの弊害、ヴァイオリンをはじめとするクラシック音楽業界の斜陽っぷり、天才は一部であり、ヴァイオリンは人生を豊かにするアイテムであること、などをお話くださいました。
「天才は、一部。日本人ヴァイオリニストで世界的に活躍している人は、みんな幼少期を外国で過ごしている。教育の仕方が違うのよ。むこうではみんなのびのび育てられるの」
そうまで言われると、少し不安になってきます。
私たちは長女に無理やりヴァイオリンをやらせているのでしょうか。右手が硬くなるほど押し付けて演奏させているのでしょうか……。
そう思っていたときでした――。
「ねえあなた、ヴァイオリン好き?」
先生が長女に尋ねます。正直、どきっとしました。長女はなんと答えるのか。もしかしたら親の顔をチラチラ見ながら返事するのだろうか――しかし。
「うん!」
長女、まったく親の顔を見ずに、笑顔で先生に向かってうなずきました。
ほんとに? と懐疑的ではありましたが、先生は苦笑いしてらっしゃいました。でも私たち親は、目を見合わせてうなずきます。
深々と御礼をして、教室をあとにしましたが、お互いに何もしゃべらずとも意見は固まっていました。
先生のおっしゃることもきっと事実の一面なのだと思います。実際、そういう教育をされた子を何人もご覧になってきたのでしょう。最悪の結末を迎えた親子もいるかもしれません。しかし長女は何度聞いても「ヴァイオリンは好き」なのだというのです。だから高みを目指すため親子でひとつになろうと決めたのです。
ならば、ここじゃない。
先生は親が主導する稽古に警鐘を鳴らしてくださいました。それは冷や水をかぶせられる思いではありましたが、そういうご意見も実はとても大切だと思います。人生を豊かにする習い事のひとつとして楽しまれる方にとって、先生は最高の指導者になりうると思います。
しかしヴァイオリニストになる、と自ら宣言した長女には、少しでも彼女の長所を見つけてくれて、伸ばすために厳しく教えてくれる方を探すほかない。そう結論付けたのです。
この後、家族会議、そして親族会議と話はつづきます。でも今日はこのへんで。
ではまた。