人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

親の悩むことはだいたい同じ

仙台国際音楽コンクールのアーカイブ映像を最近よく聴きます。トゥッティが若干割れ気味なのが気になりますが、Youtubeだしある程度は仕方ないのかな。シューマンのコンチェルトはあまり聴きこんでいない分、ここでたくさん聴けて楽しいです。

 

しかしみなさん音程を外さないのは当たり前、表現も一音一音練られていて、どこでどう甲乙をつけるのやら。審査員の方々の「好きか嫌いか」によるのでしょうか。本当にギリギリラインの消去法なのでしょうね。もし私がひとつだけ好悪、もしくは甲乙をつけるとしたら、音のキレですね。モニャッとした音が多い人と、パキッとした音で大部分を構成している人に二分され、パキッとした人ほどファイナルに残っている気がしました。ド素人の耳なのでそのつもりで読み流してください。

 

ヴァイオリンを習う子とその親でご飯を食べたときのこと。

 

やはり親の悩みはみな同じで、子の練習に対する姿勢や記憶力、能力についてがメインですが、そのほかにも「練習時間」「音を出す場所」「練習の方法」などがあがりました。

 

ひとつのショックな共通点もなんとなく見えてきました。ものすごく上手な子が高学年になると勉学に集中するためにヴァイオリンを辞めるもしくは休止する、というケースを聞くのです。

 

それと、人の庭の芝は青く見えるものなのだな、ということ。どんなお教室、どんな教わり方、どんな方針にも一長一短はあるもので、結局、子自身の自主性が育つまでは我慢しながら練習を見続け、いつ手から離れてくれてもいいように準備し続けるしかないのでしょう。

 

が、それがストレスなんですよね。

 

だから一緒に親までフラフラと気持ちが揺れてしまう。「才能が無いのでは」「素質がないのでは」「この子は本当はやりたくないのでは」「辞めさせたほうがいいのでは」そして「お教室がよくないのでは」「指導法がよくないのでは」「メソッドが子にあっていないのでは」となっていく「こともある」。

 

たまにはこうやって情報交換(という名の現状の愚痴)をして「お互い同じ悩みを持っていて、どこにいようと何をしようと、あまりそれは解決しない」ということを確認しあっておいたほうがいいですね。

 

結局は親がどっしり構え、子に育ってほしい方向を我慢強く見せ続けるしかないのに。それができないから私たちは苦しむわけですね。

 

なんだかこんな文学作品ありましたよね
世の悲哀の物語はどんなシチュエーションだろうと同じ場所に回帰するのかな

 

ではまた。