エマについての考察における心と表現
最近、私自身のことで「っ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」となる件が多いです。
「あああああ~」ではないんです。バラエティ番組の客席のご婦人方からあがる、ゆるやかなポルタメントのため息ではないのです。
「あ」を弓元で乱暴に弾いたように濁らせ、しかも最初に怒りと悔しさを吹き飛ばすスタカティッシモな「っ゛」が入る。発音でいうと「g」に近いでしょうか。全体的にスフォルツァントからさらにクレッシエンド、そしてヴィヴァーチェな感じ。
再現できた方、ぜひご一報ください(何も出ませんが)。
最近、姉妹はかなり忙しい日々を送っています。
まずもってふたりとも中学年になりましたから、6時間授業が増えました。加えて4年生からはクラブ活動が始まりますから、月に1度ではありますが、帰宅時間がグンと遅くなります。
そのくせ、勉強自体の難易度はあがり、教科も増え、どんどん練習時間が圧迫されていっています。土日はどうしてもはみ出てしまった些事を調整するのに費やしてしまいます。平日の圧迫感は最近ちょっとすごいです。
慣れるしかないのでしょうけどね。
そんな中でも遊びの要素はどうしても入れたい。
というわけで観てきました。「Beauty and The Beast」。姉妹にとっては生まれてはじめての日本語字幕版。ハリーポッターにハマっている長女にとって、エマ・ワトソン出演映画はチェックしなければならない作品だったらしく、ずっとねだられていたので時間をやりくりして、夜、子どもが見られるギリギリの回になんとか滑り込みセーフ!
実はですね、私、この原作、観てないんですよ。
意外とディズニー作品をちゃんと観ていなくて、アラジンは劇団四季を観劇する前に慌ててチェックした体たらく。白雪姫もシンデレラもファンタジアもピノキオもダンボもジャングルブックもアリスもメリーポピンズも……(以下略)……ラプンツェルも観ていない。
今数えてみたら、ナイトメア・ビフォー・クリスマス(正確には製作タッチストーンなので完全なディズニーではありません)、ライオンキング、ノートルダムの鐘、アナと雪の女王、ベイマックス、ズートピアくらいしかチェックしてなかった! おかしいなあ。ピクサー作品はほぼチェックしているんだけど、この差はいったい何なんだろう。
ディズニー映画でもそうとう初期の作品ですよね、美女と野獣。ファンタジー作品なのにすごく人間くさいドラマで、私は楽しめました。ガストン最高。ああいうジャイアンキャラ、物語に出てくるぶんにはとても好きです。
ただですね。
↓ここから、若干のネタバレがありますので、ご注意を!
執事やソーサーたちがベルをもてなすダンスと歌のシーン。エマの演技がとてもつまらなさそうだったのです。「うわ、ありがた迷惑って顔してる!?」と見ているこちら側に伝わってきてしまいました。鑑賞後に少し検索したら、こんな記事が。
うん、エマちゃん、伝わってきたよその退屈ぐあい。
↑ネタバレはここまで。
……あとで考えてゾッとしたんですよね。
心に何もない演奏って、実はこんな風に伝わっているんだろうな、と。
たとえミスが多くても心に風景のある演奏って、それだけで気持ちが持っていかれる感じがしませんか? もちろんミスがあるとその都度現実に引き戻されるので、少し興ざめしてしまうという面はありますが、それでも何かを思い浮かべながら弾いている演奏というのは本当に退屈させない。最近聴いた方の中では、先日紀尾井ホールでリサイタルがありましたが(残念ながら行けませんでしたが)、岡本誠司さんの演奏には本当にそれがあったと思います。ショーソンの詩曲は彼の演奏で初めて知ったのに、心をわしづかみにされました。
イダ・ヘンデルさんのフランクのソナタにもゾクッとくる物語がありましたし、竹澤恭子さんのブラームスのソナタにも心に迫るものを感じました。
こういった演奏力は、年齢とともにすべての表現者たちが多かれ少なかれ備えていくことになると思うのですが、子どものころの表現方法を眺めていると、アプローチの仕方が違うのだなあと思い当たりまして。
特に我が家では姉妹でアプローチが違う。あまりに顕著でおもしろいです。
長女の場合。
ここはこういう音で弾いたらかっこいいでしょ!?(私が)
二女の場合。
こういうシーンだからこういう音なの(絵描きの魂)
どちらが偉いとかどちらが素晴らしいとかは無いのだから、いいんだよ、今はそれで。きっとそのうち、どちらの心も持つことになるし、大人になるにつれてうまいこと融合されていくから。
どんな形にせよ「こうしたい」という気持ちがあるというのは良いこと。自発的な表現欲の発露は表現者としての原始的な衝動ですから、少なくともそれが「ある」と感じる以上はどんな形であれ受け入れたい。そして可能な限り伸ばしたい。
大人から見てどんなに稚拙で気恥ずかしいものだとしても、自発的な表現欲求を否定することだけは絶対に避けたい。でないと、まるで味のしない料理のように、退屈さを受け手に伝えてしまうものを作り上げる子になる。
その育て方だけは避けなければならないと思うのです。
ちょうど昨夜に放送された「奇跡のレッスン」(これ、ほとんどが再放送なんですね)でシルヴァーナ・スペラーティさんも同じようなことを言っていました。
「自分の頭で考え、他人の考えを尊重する」
「結果を褒めてはいけない。子の思考をトレースし、過程を褒める」
その上で
「大人が止まると、子どもは動く」
大変ためになります。
今回のテーマは「表現」でございました
私の表現力は冒頭レベルですので、なんか、ごめんなさい
ではまた。