人生を劇場にしない

ヴァイオリン経験皆無の親が、迷走しながら長女を導く軌跡

子育てと楽器道

今日のテーマはこれです。

 

 子の覚悟や態度に物足りなさを感じてイラ立つことありませんか。どうしてそこをもっとこだわらない!? とか、なぜ1回できたくらいでサラッと練習を終える!? とか。我が家は毎日精神をすり減らしています。

 

想像するに、小学生の習い事で競いあうコンクールでは、「自律」と「自立」が異様に早い子、もしくは何か疑問を感じる前の従順な時期が有利ですね。すでに音楽性を持ち合わせている子や、ムダの一切ない学習を積み上げてきた子は、自律や自立の手前に発生する「反抗」や「生きる意味への問答」を通過する前に大きな賞をとっちゃったりするわけですが、ある意味親はそっちのほうがラクです。

 

話は少しずれますが、親がラクであることを親孝行と言うんじゃないかな、なんて感じました。儒教的にも「孝」は親の言うことに従順に添う心を指します。今の時代にはあまりそぐわない教えですね。子の人格を認めない大人が、ラクをするために作った勝手なルールと解釈されますから。

 

さて。そんな子育てとは切っても切り離せないのが反抗期というやつ。親として恐怖すら覚えるものの、来てしかるべき現象ですから仕方ない。

そもそも、親という存在を自ら突き放し、自分を主張してひとりで生きる覚悟を自らに課す、脳の成長の一環です。ここを乗り越えないと子が独り立ちできない。だから成り行きに任せつつ、大人も引けない一線を越えてきたときはひとりの人間として立ち向かわないといけない。反抗期ってきっとそういうものだと思うのです。

 

我が家ですか? まだ反抗期に片足突っ込んだ程度の姉妹には、そこまで手を焼いていません。そのかわり、ハッパをかけないと本気で練習をやらないことが増えてきました。うーん、まあ仕方ないのかなあ、私の血だしなあ……。

 

閑話休題

 

反抗期についてはまだ未経験なのでこの程度にいたしまして、最近まですっかり忘れていた子育ての辛さにちょっとだけ触れたいと思います。

 

子育てと楽器道の複合生活にとって最初に辛いのは、小学校1~3年生の頃ではないでしょうか。少なくとも我が家はそうでした。似たような体験談を聞かせていただく機会があったのですが、そうそう、あったそんなこと! と、懐かしさとともにいろいろと辛かったことまで思い出してしまいました。

 

乳児や幼児との対決は体力勝負で済みます。しかし小学校にあがって外の文化を少しずつ取り入れるようになっていく子どもたちは、良くも悪くも背中に「別社会」を背負って帰ってきては無遠慮に家庭内に混ぜ込んできます。この見えない敵と真剣に戦い出すとムダに体力を消耗しますね。今は親も慣れてきたので、「大好きだよ~」と声がけを忘れないよう気をつけながら、子を信じて外文化はサラッとやり過ごすことにしています。

 

一方そのころ親は。急に周囲の子や少し年上の子たちがはるか先を歩く優れた人材のように見えてきて、自分の子が本当にそこまで成長できるのか不安に苛まれだします。

 

いつまでこんなに音程が悪いんだろう。

いつまでこんなにボウイングがヘタなんだろう。

いつまでこんなに指が回らないんだろう。

いつまでこんなに譜読みが遅いんだろう。

いつまで……

いつまで……

 

一方で、子も自立心が芽生えはじめ、だんだん親に素直に甘えられなくなっていきます。反抗期というのはすでにこの時期を起点にして始まっているのではないかと思うくらい、心のありようが変わっていった気もします。

だから、未熟で学習中の親と、心が成長する過程にいる子との間で、小さな悲しいすれ違いが繰り返されていく。親は加減が分からず過度な期待を子にぶつけてしまい、子はなぜこんなにこの人は怒っているのかと疑問に苛まれながら自分のやることを果たそうとする。でもやることをやっていても怒られ続けていると、自分はいったい何のために楽器を弾いているのかわからなくなってくる。それを言語化できない幼い脳は、反発するか泣くか練習から逃げるかしかできない。

 

こうして、親子してもどかしい思いを抱えることになる。

反抗期よりもこの時期のほうが辛いんじゃないか、というのが持論です。

 

実は、対象の習い事を嫌いにならずに、親子で「一緒になって苦しめば」そのうち全部習得します。もちろん出来不出来は人それぞれですし、レベルの差も出てきます。それはどんなことにだって起こりえることですから、殊更に主張することでもありません。

とはいえ早熟の天才を育てるつもりではないのであれば、立派な大人になる過程でどんどん自分から吸収していくことでしょう。それこそ、「自律」と「自立」を兼ね備えてさえいれば、上記のことは自分で意識し出して攻略法を編み出します。

 

人とは違う発想の一部の天才のために芸術はある。そんな言葉を最近某所で見かけました。もちろんそういう側面もあるでしょうが、地道な努力を重ねて継承する芸術だってあるはず。誰もが天才である必要はないし、努力も才能なんだから堂々と胸を張ればいい。おおよそ「天才論」を展開する人は凡人であることが多いのだし、そんな人に才能の有り無しを語られたくない。


「英雄など酒場に行けばいくらでもいる。その反対に歯医者の診察台にはひとりもいない」大好きな小説の一節です。ほとんどの天才音楽家なんて他薦プロフィールにしかいない。みんな地道な努力をしてるんですよ。

 

だから焦らないで。と当時の自分に伝えてやりたい。

 

そんなことを思ったのでした。

 

ではまた。